Git の master ブランチは差別的表現なのか?
最初に宣言しておくと、このページの結論は Boolean 型ではない。なんだったら Void っぽい。
大学時代から読んでいるはずだから、たぶん 14 年くらいは読み続けている Piro さんのブログ。今回もたいへん興味深く拝読した。自分ひとりでは考えたくても考え切れないところがあり、そこを補ってもらっているような感覚で読んだ。 リンク先の記事のタイトルの通り、Piro さんはご自身が作成した個人リポジトリについてはデフォルトブランチを trunk という名前にした、とのこと。ぼくはどうしようかな〜とあまり急ぐでもなく考えている。考えたいから考えている、という感じ。 世界のことはいったん置いておいて、自分だけのことを考えると、ぼくが自分に関していちばん恐れていることは「思考停止」なので、思考停止というバッドエンドを避けることばかり考えている。「知らん、なにも考えたくない、このまま master にしとく」となるのも「しらん、なにも考えたくない、trunk にすればいいんでしょ」となるのも、どっちもぼくにとってはバッドエンドになり得るのである。だからなんとか考えようとして考えている。 という具合に、普段の生活で被差別者としての辛さを実感する機会が僕には無いので、実際に今リアルタイムで差別的な扱いを受けている人の口惜しい感覚は、本当のところは分からないのではないかと思っている。
これは、ぼくも同じだと思う。この自覚は、ぼくを少し緊張させる。2019年度 東京大学学部入学式 祝辞 by 上野千鶴子 に触れたときにも似たような感覚を抱いた。自分が今こうして、なにかしらの理不尽に生活を脅かされたり、なにかしらの理不尽に対して激しい憤りを抱えたりせずに心穏やかに暮らせているのは、幸運に幸運が重なって、イージーなルートに入り続けたからなのではないか。そしておそらくこの想像は当たっている。ぼくの人生は大きな幸運の上に成り立っている。その幸運の上で思考停止してしまうのがとても怖い…。 そのように「強者側」「傍観者側」にいる人の感覚で「えっ、それくらい別にいいじゃん」「何でそんな程度のことに目くじらたててるの?」とナチュラルに思って為されるのが、差別というものだということを、僕はすでに知っている。だから、自分の感覚で「これくらい問題ないでしょ」と思えたときにこそ、自分が知らず知らずのうちに差別をしている可能性は常に考えないといけないと思っていて、こういう話題には敏感にならずにはいられない。自分がしていること・してきたことの正当性を主張することが、それ自体差別になっている可能性すらある。いかな互換性のためとはいえ、masterというブランチ名を堂々と使っていいと言える自信を、僕は今は持てないでいる。
そうだよなあ。
というわけで、わからないならわからないなりにわかることから順に考えていくぞ、ってのと、わかることを増やすために新たな知識を仕入れる、ってのをやっていこう。週末にインプットの時間を取ろうと思う。
リンクしておきたいページたち
「相手の気持ちを思いやる」というアプローチは、今回のトピックに対して役に立たないと思う
「それくらい別にいいじゃん」という態度を取ることで「問題を固定化する」に加担してしまわないだろうか、と心配
「自己責任」という言葉が都合よく持ち出されるときの「無責任」感はすごいよな、とあらためて